東京地方裁判所 平成8年(ワ)16944号 判決 1997年4月11日
原告
杏林製薬株式会社
右代表者代表取締役
荻原秀
原告訴訟代理人弁護士
唐澤貴夫
原告(平成八年(ワ)第一六九四四号事件を除く)訴訟代理人弁護士
花岡巖
平成七年(ワ)第一二二九一号事件被告
株式会社ワイ・アイ・シー
右代表者代表取締役
松本巍
同
シオノケミカル株式会社
右代表者代表取締役
塩野谷貫一
平成七年(ワ)第一三七〇四号事件被告
辰巳化学株式会社
右代表者代表取締役
黒崎昌俊
同
株式会社陽進堂
右代表者代表取締役
下村健三
平成七年(ワ)第一七七九二号事件被告
東洋ファルマー株式会社
右代表者代表取締役
岡本美一
平成八年(ワ)第一四九四五号事件被告
大洋薬品工業株式会社
右代表者代表取締役
新谷重樹
平成八年(ワ)第一六九四四号事件被告
共和薬品工業株式会社
右代表者代表取締役
杉浦好昭
右七名訴訟代理人弁護士
脇田輝次
右輔佐人弁理士
小野信夫
主文
一1 被告株式会杜ワイ・アイ・シーは、別紙目録1記載のノルフロキサシン原末を製造、販売してはならない。
2 被告株式会社ワイ・アイ・シーは、別紙目録1記載のノルフロキサシン原末を廃棄せよ。
二1 被告シオノケミカル株式会社は、別紙目録2記載の製剤を製造、販売してはならない。
2 被告シオノケミカル株式会社は、別紙目録1記載のノルフロキサシン原末及び別紙目録2記載の製剤を廃棄せよ。
三1 被告辰巳化学株式会社は、別紙目録3記載の製剤を製造、販売してはならない。
2 被告辰巳化学株式会社は、別紙目録1記載のノルフロキサシン原末及び別紙目録3記載の製剤を廃棄せよ。
四1 被告株式会社陽進堂は、別紙目録4記載の製剤を製造、販売してはならない。
2 被告株式会社陽進堂は、別紙目録1記載のノルフロキサシン原末及び別紙目録4記載の製剤を廃棄せよ。
五1 被告東洋ファルマー株式会社は、別紙目録5記載の製剤を製造、販売してはならない。
2 被告東洋ファルマー株式会社は、別紙目録1記載のノルフロキサシン原末及び別紙目録5記載の製剤を廃棄せよ。
六1 被告大洋薬品工業株式会社は、別紙目録6記載の製剤を製造、販売してはならない。
2 被告大洋薬品工業株式会社は、別紙目録1記載のノルフロキサシン原末及び別紙目録6記載の製剤を廃棄せよ。
七1 被告共和薬品工業株式会社は、別紙目録7記載の製剤を製造、販売してはならない。
2 被告共和薬品工業株式会社は、別紙目録1記載のノルフロキサシン原末及び別紙目録7記載の製剤を廃棄せよ。
八 訴訟費用は被告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
主文同旨
第二 事案の概要
一 本件は、原告が、平成六年法律第一一六号特許法等の一部を改正する法律(以下「改正法」という。)により存続期間が延長された本件特許権に基づき、被告株式会社ワイ・アイ・シー(以下「被告ワイ・アイ・シー」という。)に対してノルフロキサシン原末の製造、販売行為の差止等を、その余の被告らに対してノルフロキサシンを含有する製剤の製造、販売行為の差止等を請求した事案である。
被告らは、被告ワイ・アイ・シーが改正法公布の日前に、ノルフロキサシン原末の製造事業の準備をしていたから、改正法附則五条二項の規定に基づき、改正法の施行がないとした場合における本件特許権の存続期間の満了後、本件特許権について通常実施権を有することとなった。したがって、被告ワイ・アイ・シーがするノルフロキサシン原末の製造、販売行為は適法であり、またその原末を譲り受けてノルフロキサシン製剤を製造し、販売するその余の被告らの行為も適法である旨争った。
二 基礎となる事実
1 本件特許権
(一) 原告は、左記の特許権(以下「本件特許権」といい、その発明を「本件特許発明」といい、その願書に添付した明細書を「本件特許明細書」という。)を有する(争いがない)。
特許登録番号 第一〇四一三三九号
発明の名称 新規置換キノリンカルボン酸
出願年月日 昭和五二年五月一六日
出願公告年月日 昭和五五年九月四日
登録年月日 昭和五六年四月二三日
特許請求の範囲 本判決添付の特許公報(以下「本件公報」という。)写しの該当欄第一項記載のとおり
(二) 本件特許権の存続期間は、改正法の施行がなかった場合、平成七年九月四日をもって満了するはずであったが(以下「旧存続期間」という。)、改正法の施行により、その存続期間は平成九年五月一六日まで延長された。
2 被告らの行為
(一) 被告ワイ・アイ・シーは、平成六年一二月七日、別紙目録1記載のノルフロキサシン(以下「ノルフロキサシン」という。)製造のために必要な医薬品製造品目追加許可申請を厚生大臣に提出し、平成七年二月一五日その許可を取得し、旧存続期間の満了後は、ノルフロキサシンを製造していると主張し、かつ、ノルフロキサシンの原末を販売している(争いがない)。
(二) 被告ワイ・アイ・シーを除く被告らは、いずれもノルフロキサシンを含有する製剤として、被告シオノケミカル株式会社(以下「被告シオノケミカル」という。)については別紙目録2記載の製剤、被告辰巳化学株式会社(以下「被告辰巳化学」という。)については別紙目録3記載の製剤、被告株式会社陽進堂(以下「被告陽進堂」という。)については別紙目録4記載の製剤、被告東洋ファルマー株式会社(以下「被告東洋ファルマー」という。)については別紙目録5記載の製剤、被告大洋薬品工業株式会社(以下「被告大洋薬品工業」という。)については別紙目録6記載の製剤、被告共和薬品工業株式会社(以下「被告共和薬品工業」という。)については別紙目録7記載の製剤を、それぞれ製造販売している(争いがない)。
3 ノルフロキサシンは、本件特許発明の技術的範囲に含まれるから、ノルフロキサシン原末を製造販売する行為及びノルフロキサシンを含有する製剤を製造販売する行為は、いずれも本件特許権の実施行為となる(争いがない)。
4 特許法の改正の経緯
平成六年九月七日に開催された第二九回工業所有権審議会総会においてとりまとめられた特許法等改正に関する答申に基づき策定された「特許法の一部を改正する法律案」は、閣議決定を経て国会に提出され、同年一二月八日に参議院本会議で可決されて「平成六年法律第一一六号特許法等の一部を改正する法律」として成立し、同月一四日公布され、特許権の存続期間についての改正を含む部分は、平成七年七月一日から施行された。
前記特許法改正に関する答申には、特許権の存続期間について、出願の日から二〇年をもって終了する旨の規定に改めることと共に、世界貿易機関設立協定受託の日前に存続期間が延長される特許発明の実施の準備をしていた者は通常実施権を有する旨の経過措置を設ける必要がある旨が記載されており、右のような答申の内容全文は、少なくとも答申の翌日には被告ら製薬業者には入手可能であった(以下、甲一七号証の一ないし三)。
三 争点
1 被告ワイ・アイ・シーは、改正法が公布された平成六年一二月一四日の前に、ノルフロキサシン原末の製造のための準備行為をしていたか。
2 被告ワイ・アイ・シーを除くその余の被告らが製造し、販売するノルフロキサシンを含有する製剤は、被告ワイ・アイ・シーが、前記準備行為に基づく製造行為によって製造しているノルフロキサシン原末を用いているものであるか。
四 争点1に関する当事者の主張
(被告らの主張)
1 改正法附則五条二項の解釈について
改正法附則五条二項にいう「発明の実施である事業の準備」とは、主要な準備行為を終えて、主要な設備を備え、通常の状態のもとで、予想できない事故がない限り、準備を完了し、事業開始に至ることが客観的に確実に予見される状態をいう。
改正法附則五条二項の規定は、改正法が特許権者に特許権の存続期間延長という一方的な利益を与えたことに対し、一定の範囲の者に通常実施権を与え、特許権者以外の者との利害を調整しようとして設けられた規定であって、本来予定されていた存続期間における特許権に制限を加えるものではないこと、通常実施権の付与は、無償でなく、特許権者に対する対価の支払いが予定されていること等を勘案すれば、改正法附則五条二項にいう発明の実施である事業の準備行為は、できるだけ広く解釈されるべきである。
2 被告ワイ・アイ・シーの準備行為の概要
被告ワイ・アイ・シーは、合成工場として延床面積約三二二平方メートルの三階建ての建屋一棟を所有し、同工場で医薬品原料を製造しこれを主として後発医薬品メーカーに供給している、研究員二名、作業員六名、品質管理者三名、経理一名の合計一二名の従業員からなる資本金一〇五〇万円の会社であるが、以下に述べるとおり、本件特許発明の実施である「事業の準備」をしていた。
したがって、被告ワイ・アイ・シーは、改正法附則五条二項の規定に基づき、本件特許権の旧存続期間満了日の翌日である平成七年九月五日以降、本件特許権について通常実施権を有する。
(一) ノルフロキサシン製剤は、その本件特許権の存続期間満了後に、多くの後発医薬品メーカーがその販売を計画していた品目であり、被告ワイ・アイ・シーは右のような後発医薬品メーカーの動向に注目し、まず平成四年二月ころ特許調査を行い、本件特許権の存続期間が平成七年九月四日に満了することを確認し平成五年七月ころから、ノルフロキサシン原末の製造を行うか否か等について検討を始めた。
(二) 被告ワイ・アイ・シーは、ノルフロキサシン原末の販売先の確保のため、後発医薬品メーカー数社と交渉したところ、取引先である後発医薬品メーカーの多くがノルフロキサシンの製造承認申請を行っておりその原末を被告ワイ・アイ・シーから供給を受けることに前向きの姿勢を示したので、ノルフロキサシン原末の製造方法や製造設備等についての検討を具体的に進めることとした。
(三) 被告ワイ・アイ・シーは、ノルフロキサシン原末の製造方法を本件特許明細書に記載されている実施例から選択することとし、実施例6の方法が工程が容易であり、実施例6のみに唯一収率が記載されそれが87.5パーセントと高率であったことから、実施例6の方法によって製造することに決定した。
しかし、当時、被告ワイ・アイ・シーの工場に設置されていた五基の反応槽には、実施例6の方法でノルフロキサシン原末を製造するために必要な水分離設備が設置されていなかったから、既存の設備ではノルフロキサシン原末を製造することは不可能であった。
既設の反応槽に水分離設備を付設してノルフロキサシン原末の製造を行うことは可能であったが、既設の反応槽は、当時、被告ワイ・アイ・シーの他の取扱品目のためフル稼働に近い状態であったため、容量的にもノルフロキサシン原末を製造するためには設備を増設することが必要であった。
また被告ワイ・アイ・シーのような小規模の合成工場においては、一品目の医薬品原料のためだけの専用設備を設けることは効率的ではなくまたその必要もないため、汎用性を備えた設備を設けることが望ましいところ、当時既存設備で製造を行っていたテプレノン原末の製造数量が将来増加することも見込まれる状況にあったので、ノルフロキサシン原末製造のために増設する設備は、テプレノンの製造も出来るものであるとともに、他の医薬品原料の製造も可能な汎用性のある設備として設置することとした。
(四) 被告ワイ・アイ・シーは、平成六年四月二一日、既存設備の設置を請負った立花耐酸機器株式会社(以下「立花耐酸機器」という。)をとおし、ダイヤモンドエンジニアリング株式会社(以下「ダイヤモンドエンジニアリング」という。)に増設工事を請け負わせることとし、同社と増設すべき設備の内容について打ち合わせを行った(乙一〇号証、乙三三号証)。
打合覚書(乙三三号証)には、ノルフロキサシン及びテプレノンが具体的に記載されていないが、同覚書の二項の「打合内容」欄の(4)配管関係の項に、「還流ラインは水分分離缶をライン上に設置する事」と記載されており、右水分分離缶とは水分分離設備であって、ノルフロキサシン原末製造のため設置が必要であったことは前記のとおりであるから、被告ワイ・アイ・シーが、右の時点で既にノルフロキサシン原末製造を増設工事の目的としていたことは明らかである。
また、同覚書に記載されている、ベンゼン、エタノール及び3―メトオキシー1―ブタノールは、実施例6に基づいてノルフロキサシン原末を製造するために必要な主要な溶媒であり、メタノール、EDC、アセト酢酸エチルはテプレノンの製造のための溶媒として使用されるものである。これは後記する危険物取扱所変更許可申請書の別紙(1)に記載されているノルフロキサシン原末とテプレノンの製造に使用する溶媒と同一であり、この点からも本件増設工事が、ノルフロキサシン原末とテプレノンの製造を目的としていたものであることは明らかである。
(五) ダイヤモンドエンジニアリングは、右打合せに基づいて、被告ワイ・アイ・シーの要求する設備の機種や仕様を具体的に決定し、その見積書を、平成六年五月一八日、立花耐酸機器を通して、被告ワイ・アイ・シーに提出した。
(六) 水分離設備の反応槽とこれに付帯する諸設備を増設するためには、四〇〇〇万円近い投資が必要であったが、もし設備投資を行いながら、原末供給の受注がなければ、経営上大きな損失を被ることとなるため、被告ワイ・アイ・シーは、右増設計画を進める一方、後発医薬品メーカーとノルフロキサシン原末の製造、供給に関する契約の交渉を進め、平成六年五月一八日付けで、被告シオノケミカル、被告陽進堂、被告辰巳化学と、ノルフロキサシン原末の製造及び供給に関する契約を締結した(乙三号証、乙三一号証、乙三二号証)。
右契約では、いずれもノルフロキサシン原末の最低購入数量及びその不履行の場合の違約金に関する規定が設けられているが、これは被告ワイ・アイ・シーが四〇〇〇万円近い設備投資をするため、その担保として、被告ワイ・アイ・シーの強い要望により設けられたものである。
(七) 被告ワイ・アイ・シーは、その後間もなく、前記した見積書どおり、立花耐酸機器に増設工事を発注し、平成六年一〇月より一二月にかけ、総費用三六〇五万円をかけて医薬品製造設備の増設工事を行い(乙一号証、乙四号証、乙六号証)、同年一二月八日に増設工事が完成し、同月一五日に完成検査済証が交付された。
(八) 被告ワイ・アイ・シーは、ノルフロキサシン原末及びテプレノン製造のための設備増設工事について、婦中町長宛に、同年一一月一日付けで危険物取扱所変更許可の申請を行った(以下、その申請書を「危険物変更許可申請書」という。乙七号証の二)。
(九) 被告ワイ・アイ・シーは、平成六年一二月七日付けで厚生大臣宛に、ノルフロキサシン原末製造のために必要な医薬品製造品目追加許可の申請(以下、その申請書を「製造品目追加許可申請書」という。乙五号証)を行い、平成七年二月一五日にその許可を取得した。
3 製造設備の内容について
(一) 今回、増設した設備がノルフロキサシン原末製造のためのものであることは、前記した水分離設備の設置に加え、危険物変更許可申請書別紙(1)にノルフロキサシン原末製造のための溶媒が記載されており、しかもその取扱量(メトキシーブタノール二七五リットル、ベンゼン四〇〇リットル、エタノール三〇〇リットル)が、今回増設された反応槽を使用することを示していることから明らかである。
(二) 原告は、本件増設設備の各プラントがノルフロキサシン原末の製造にふさわしくない理由として、増設されたグラスライニング製の反応槽は必要以上に高価で衝撃に弱いと主張する。
しかし、各プラントは、ノルフロキサシン原末以外の医薬品原料の製造にも利用できる汎用性のある設備としてその内容を決定しているものであって、決してノルフロキサシン原末専用の設備として増設したわけではない。
医薬品原料の製造設備としてはグラスライニングされたものを使用するのが通常であって、ステンレス製の反応槽は重金属の混入する可能性もあり、一般的には使用されない。それゆえ、ノルフロキサシン原末の製造設備としてもグラスライニング製の設備が望ましいことはいうまでもない。
グラスライニング製の設備でノルフロキサシン原末が製造できないというのであればともかく、その設備が高価で弱いなどという理由で、本件増設設備がノルフロキサシン原末製造用の設備でないという原告の主張は失当である。
(三) なお製造品目追加許可申請書の構造設備の概要欄には「変更なし」と記載されているが、右欄に記載する変更とは、製造設備の変更届を必要とする変更を指すものであり、本件増設工事程度の変更はこれにあたらないから、「変更なし」と記載しているにすぎない。
すなわち、製造品目追加許可申請書の構造設備の概要欄に記載すべき「変更」とは、「製造設備の変更届」を必要とする「変更」と同一のものと解され、医薬品製造指針は、構造設備の変更届を必要とする「変更」を「製造所の構造設備の主要部分の変更とは、建造物の増減、構造のうち製造に関係ある部分の大幅な変更あるいは主要機械等の新設又は廃止等をいい、例えば建物の窓を増したりとか、製造機械2台のところへ1台増したとかいう程度は含めない。」と解説している。
被告ワイ・アイ・シーは、本件増設工事当時、主要な設備として、既に反応槽五基、洗浄槽四基、乾燥機三基、粉砕機二基、遠心分離機二基、フィルタープレス一基等を所有していたものであるから、同一合成工場内に、さらに反応槽一基及びこれに付随する設備を増設するにすぎない本件増設設備の内容は、製造設備の変更届を必要とする変更に当たらない。
4 被告ワイ・アイ・シーは、本件特許明細書に記載された実施例6の方法でノルフロキサシン原末を製造することを決定し、溶媒の使用量を含め基本的な製造方法を決めていた。
しかし、ノルフロキサシン原末の生産自体は本件特許権の存続期間満了後に行う予定であったため、ノルフロキサシン原末製造のための詳細な条件等、最終的な製造作業手順は、確定するに至っていなかったことから、危険物変更許可申請書には、当時、既存の設備で製造を行っていたテプレノンやロキソプロフェンについての作業手順書やフローシートを添付して提出することができたが、ノルフロキサシン原末については作業手順書等を提出することができなかった。
被告ワイ・アイ・シーの担当者が、婦中町消防署の担当者に相談したところ、ノルフロキサシンについては最終的な作業手順が確定した後に、追加して提出すればよい旨の指導を受け、そのため、危険物変更許可申請書には、ノルフロキサシン原末の作業手順に関する書類を添付しなかった。消防署がこのような指導をするのは、増設設備で製造される製品の作業手順そのものよりも、その製造のために使用される溶媒、特に危険物の指定のある溶媒に関心があるからである。
しかし、危険物変更許可申請書に添付された別紙(1)(以下「別紙(1)」という。)には、ノルフロキサシン原末の製造に使用する溶媒で危険物の指定を受けている溶媒が記載されているから、危険物変更許可申請書に添付すべきノルフロキサシン原末製造に関する別紙(2)(以下「別紙(2)」という。)の添付がないとしても、別紙(1)の記載によって、本件増設設備がノルフロキサシン原末の製造のために設置されたものであることは明らかである。
原告は、別紙(1)と、作業手順書の記載の相違を問題にするが、別紙(1)と作業手順書の相違は、実施例6の方法を実施する際、作業手順を確立する段階で、現場の実態に合わせて工程の短縮や溶媒の使用量等の現実的な対応のための変更により生じた相違にすぎない。右変更の存在をもって、本件危険物変更許可申請時と作業手順書作成時との間に、ノルフロキサシン原末の製造方法に基本的な変更が生じたとは認められない。
別紙(1)に記載されているノルフロキサシン原末の製造に使用する溶媒の品名、使用量及びその使用される工程は、被告ワイ・アイ・シーがノルフロキサシン原末を実施例6の方法で製造することを前提として記載したものである。実施例6の方法を知っている者が、別紙(1)の溶媒、数量、工程等をみれば、その内容だけでも、被告ワイ・アイ・シーが、危険物変更許可申請当時、実施例6の方法でノルフロキサシン原末を製造することを計画し、その製造のために使用する設備として本件増設工事を行ったことは容易に認められる。
なお別紙(1)のノルフロキサシンの欄の記載中、ベンゼンに関する記載に、赤鉛筆による斜線が書き込まれているが、これは消防署の担当者に注意喚起のため記載したにすぎないのであり、右記載を抹消する意味ではない。また、別紙(1)には、ノルフロキサシン原末製造のために使用される氷酢酸についての記載がないが、これは使用量が少量であることから消防署担当者の口頭の了解を得て記載しなかったものである。
(二) 原告は、被告ワイ・アイ・シーが開示した製造方法では、ノルフロキサシン原末を工業的、経済的に製造することができないと主張する。
原告の主張の根拠は、作業手順書(乙一一号証)及び製造指図書(乙一八号証)の追試の結果、ノルフロキサシンの製造ができなかったというものであるが、原告が追試に失敗した理由は、追試した作業手順書と製造指図書が、被告ワイ・アイ・シーの従業員向けに記載されているという性質上、基本的な指示事項しか記載されておらず、あとは現場の状況にあわせて臨機応変の操作を行うことを前提としているにもかかわらず、原告がそれにふさわしい手順をふまずに追試した結果であると考えられる。
いずれにしても、原告の主張に理由がないことは後記する立会製造の結果、当該増設設備において、作業手順書あるいは製造指図書と基本的に同じ製造方法でノルフロキサシン原末が現実に製造されたことが確認されたことから明らかである。
5 ノルフロキサシン原末の製造
(一) 被告ワイ・アイ・シーは、ノルフロキサシン原末製造のための増設工事を行い、本件特許権の旧存続期間満了後実験を開始して、平成七年九月一五日以降、その増設設備を使用してノルフロキサシン原末を製造している。
右の事実は、製造記録(乙一八号証、乙四一号証の一ないし一五)及び平成八年五月二一日から二八日にかけ被告ワイ・アイ・シーの製造工場において、原告代理人、原告社員が立ち会ってしたノルフロキサシン原末の製造によって明らかにされている。
(二) 原告は、立会製造時の製造方法が作業手順書、製造指図書と相違しているかに主張するが、作業手順書及び製造指図書の記載はいずれも現場の状況にあわせて臨機応変の操作を行うことを前提として基本的な指示事項しか記載されていないし、現実の合成反応は、反応温度、圧力、時間、添加スピード、攪拌条件、外気などの外的条件により反応に大きな変化が生じ、常に同一の経過を辿るものではないから、現場ではその変化に対応するため臨機応変な操作が常に要求されるものであり、しかも作業手順書、製造指図書には通常の操作に関する記載を省略している点が多々存するから、今回の立会製造と作業手順書あるいは製造指図書の記載事項だけを比較して、違った操作が行われたというのは当たっていない。
また今回の立会製造の目的は、特許法一〇四条の推定を覆すために行われるイ号方法の実施を立証するための製造立会と目的を異にし、ましてや製造記録の信憑性を確認するために行われたものではなく、作業手順書や製造指図書と同一と評価し得る製造方法の下に、本件増設設備を使用してノルフロキサシン原末の製造が出来るか否かを確認することにあったのだから、右の観点に照らし、個々の工程における具体的な操作、反応時間、作業時間等の相違を取り立て問題にすることは、今回の立会製造の目的をはずれる。
今回の立会製造において、増設設備を使用してノルフロキサシン原末が製造できることが明白となった以上、被告が準備行為をしていたことは明らかにされたというべきである。
(三) なお、立会製造時の収量は、30.9キログラムであり、通常の製造に比べて少ないが、これは第四日目の共沸脱水工程で十分脱水が行われなかったため第五日目の作業で粗ノルフロキサシンがジクロロメタン/エタノール混合溶媒へ十分に溶解しなかったことが原因して、溶解しなかった粗ノルフロキサシンが濾去されたことが主たる原因であると考えられる。
被告ワイ・アイ・シーは、第四日目の共沸脱水終了後、ベンゼンを留去する方法に問題があることから、現在、ベンゼンを濾過する方法を行っているにもかかわらず、原告が当初の製造指図書のとおりの製造を行うことに強く主張してベンゼンを留去する方法を行わせ、しかもベンゼン留去の工程で当然に行っていた冷却、減圧をすることにも反対し、留去開始時、減圧をさせなかったことも、当初から冷却、減圧を行っていれば共沸脱水で除去されなかった水分が除去された可能性があることから、第四日目の作業で十分に脱水が行われなかったことに関係がある。
被告ワイ・アイ・シーは、通常の製造工程では、不溶物が発生したり、濾液の漏れが生じたりした場合は、これを再度再結晶工程や濾過工程に回し、その中に含まれている粗ノルフロキサシンを出来るだけ回収するように努めている。今回は立会製造ということもあって右のような回収は全く行っていないが、もし右のような回収を行っていれば、本件立会製造においても、第一回目の製造程度の収量は得られたはずである。
(四) また、本件立会製造時に用いられた手柄杓で極く少量ずつ水酸化ナトリウム水溶液を投入するという方法は、被告ワイ・アイ・シーのノウハウである。このような方法はマニュアル化して表現することは困難であるから、製造指図書には記載していないが、被告ワイ・アイ・シーは第一回の製造時から右の方法により中和工程を行っている。
(五) 本件設備でノルフロキサシン原末が製造できたということで、原告が、追試実験(甲七号証、甲八号証)で繰り返し指摘していた中和工程における固化の問題等が生じないことが明らかにされ、被告ワイ・アイ・シーが、ノルフロキサシン原末を製造している事実が明らかになったのであるから、本件の争点は解消したというべきである。
6 なお原告は、改正法附則五条二項に基づく通常実施権が成立するためには、適正な実施料の支払いまたは供託が必要である旨主張するが改正法附則五条三項が準用する特許法八〇条二項は、特許権者が実施権者から「相当な対価を受ける権利を有する」と規定するにとどまり、実施料の支払いや供託が実施権発生のための要件とはなっていない。
(原告の主張)
1 被告ワイ・アイ・シーが、改正法附則五条二項に基づき本件特許権について通常実施権を有するというためには、改正法が公布された平成六年一二月一四日の前に、ノルフロキサシン原末製造のために実際に投資がされ、しかもその投資が相当な投資でなければならない。これは現実に即していえば、少なくとも当該事業を商業的に継続して行える主要な設備を作るための投資がされ、かつ実際に当該設備が作られていることを意味する。
また改正法公布時において、即時ノルフロキサシン原末の製造を実施できる準備を完了していたことが必要であるから、ノルフロキサシン原末の具体的な工業的製造方法が確立していなければならない。
しかしながら、被告ワイ・アイ・シーがした増設工事はノルフロキサシン原末製造を目的としてしたものではないし、また改正法公布時には具体的な製造方法も確立していなかった。被告ワイ・アイ・シーは、改正法附則五条二項を充たすような準備行為をしていたとは認められない。
2 被告ワイ・アイ・シーが主張する準備行為の内容について
(一) 増設工事の内容について
(1) 被告ワイ・アイ・シーが、ノルフロキサシン原末製造の準備行為と主張する本件増設工事は、ノルフロキサシン原末製造を目的としたものではない。
増設された設備は、テプレノン製造に用いることができる汎用設備であるが、ノルフロキサシン原末の製造のためには不向きな設備である。増設工事は、もともとノルフロキサシン原末製造用に設計されたものでないことはもちろん、ノルフロキサシン原末製造に転用できるか否かが検討された事実すらも窺えない。
(2) 本件増設工事ではグラスライニング製の反応槽が増設されているが、グラスライニング製の反応槽は、反応槽として一般的に広く使われているステンレス製の反応槽の数倍の値段がする反面、衝撃に弱いというマイナス面を持ち、晶析すると詰まってしまい反応が行えず結晶の洗浄もできない。そのため、特にそれが必要とされる場合に購入されるのが普通である。テプレノンのような液体状で反応が進む医薬品の製造には向いているが、反応途中で固化したり、けん濁状となるノルフロキサシン原末の製造のために購入することは考えられない。
被告ワイ・アイ・シーは、当該プラントをテプレノンの製造のため増設したものであり、消防法上の手続において同プラントでノルフロキサシン原末を製造するとした場合に用いると予想される溶媒の使用も可能とする手続を採っただけであるとみるべきである。
(3) 被告らは、本件増設設備に水分離設備が設けられていることが、特別の意味を持つかに主張する。
水分離設備は、反応槽を購入する際、それに附属設置されるのが通常の機器であり、これがノルフロキサシン原末製造に必要でテプレノンの製造に使われないからということのみをもって、本件増設がノルフロキサシン原末製造を意図していたといえない。
また当該設備の水分離設備は、新規に購入されたものではなく、既設品を転用したものにすぎない。
被告らがそもそも水分離設備に特別の意味を見出していなかったことは、ノルフロキサシン原末製造のためベンゼンによる共沸脱水の工程で用いる機器であるのに、危険物変更許可申請書に添付した図面から水分離設備があえて消去されていることから明らかである。
(二) 危険物変更許可申請書について
(1) 被告ワイ・アイ・シーは、本件増設工事のため、平成六年一一月一日付けで危険物変更許可申請書(乙七号証の二)を婦中町長宛に提出したが、ノルフロキサシンに関する記載があるのは危険物である溶媒を記した別紙(1)だけである。しかも、別紙(1)のノルフロキサシンの欄のベンゼンに関する記載には、赤鉛筆で斜線が書き込まれており、手続上、右記載は抹消されたものとみられる。
危険物変更許可申請書には、ノルフロキサシンに関する製造工場の変更の内容、理由を示す別紙(2)が添付されておらず、結局、ノルフロキサシン原末を製造するために具体的にどの様な設備が増設され、あるいは設備が変更されるのかについて何の記載もない。
(2) 別紙(1)ノルフロキサシンの記載が残っていたとしても、その記載だけで、その製造方法を理解することも、増設された具体的設備が当然、ノルフロキサシン原末のための製造設備であるとも解されない。
被告らは、使用溶媒が決まっていたから具体的な製造方法が決まっていたかに主張するが、危険物変更許可申請書(乙七号証の二)と後に作成されたという作業手順書(乙一一号証)には、①重要な溶媒であるベンゼンの使用量及び使用される日程、②製造工程が八日間から半分近くの五日間になっている、③溶媒メトキシーブタノールの使用量が変わっている、④危険物である氷酢酸が記載されている等、多岐にわたる相違があり、それは現場実状に合わせ変更を行ったとか、医薬品の製造過程で通常生じ得る変更という程度のものではない。
また氷酢酸は危険物である以上、少量であっても口頭で了解を得て記入しなかったということはあり得ない。
これだけ変わるということはむしろ、使用溶媒についてさえもはっきり決まっていなかったと考えられ、危険物変更許可申請当時、ノルフロキサシン原末の製造のための設備の使用方法が決まっていたとは考えられない。
また別紙(1)では、溶媒としてメトキシーブタノール、ベンゼン及びエタノールを使用することになっているが、本件特許明細書記載の実施例6にはそもそもベンゼンを使用することもエタノールを使用することも記載されていない。別紙(1)の記載からは、被告ワイ・アイ・シーが実施例6の方法でノルフロキサシン原末を製造することを計画していたとは考えられない。
(3) 被告らは、ノルフロキサシンの製造に関する別紙(2)が添付されていないことについて、基本的な製造方法は決まっていたが製造のための詳細な条件等の最終的な製造作業手順が決定されていなかったので、消防署担当者の指導により追完することにしたと主張するが、消防署がそのような指導をするとは考えられない。また被告らが、本件提起後になってから提出した平成七年九月二一日付の作業手順書(乙一一号証)に記載された内容も、本件特許明細書に開示されている実施例6の記載内容とさほど変わらないのであるから、基本的な製造方法が決まっていたなら、ノルフロキサシン原末についても、別紙(2)にあるテプレノンやロキソプロフェンの作業手順書やフローシートに記載された程度の内容は書けたはずである。ノルフロキサシンについてだけ、製造のための詳細な条件等の最終的な製造作業手順が必要とされる理由は理解しがたい。
ノルフロキサシンに関する別紙(2)の添付がないということは、被告ワイ・アイ・シーが、増設工事にあたりノルフロキサシン原末の基本的な製造方法さえ決めておらず、当該増設設備を使ってノルフロキサシン原末を作る予定を具体的に何も立てていなかったことを示すものである。
(三) 製造品目追加許可申請書について
被告ワイ・アイ・シーは、平成六年一二月七日、厚生大臣宛に医薬品製造品目追加許可申請書(乙五号証)を提出したが、そのノルフロキサシンの構造設備の概要欄を「変更なし」として申請している。
この申請の日は、被告ワイ・アイ・シーが、増設工事の完成に伴い、消防署から完成検査を受けたという日の前日である。被告ワイ・アイ・シーがノルフロキサシン原末の製造に当該設備を使用する予定を持っていなかったことは明らかである。
被告らは、本件増設工事は、製造品目追加許可申請書の構造設備の概要欄で「変更なし」と記載すれば足りる工事であったと主張するが、本件増設工事で一〇〇〇リットルの大型の反応槽が新設されており、また危険物変更許可申請書には、膨大な図面等の資料類が添付されている。これらの工事内容が、構造設備の概要欄は「変更なし」との記載ですむとは考えられない。
3 被告ワイ・アイ・シーの製造方法について
(一) 被告ワイ・アイ・シーが、ノルフロキサシン原末製造の準備をしていなかったことは、そもそも被告ら主張の製造方法では、工業的、経済的にノルフロキサシン原末が得られないことから明らかである。
被告らは、作業手順書、製造指図書は、基本的な指示事項のみを記載しているというが、そもそも基本的な指示事項として記載されているPU―23により二五パーセントの水酸化ナトリウム水溶液を一〇三リットル投入するという操作をとれば、内容物が固化し、その後の操作は不可能となる。この一事をもってしても、被告らが提出した第一回目の製造記録(乙一八号証)が架空の作文であることは明らかである。
被告ワイ・アイ・シーが、そもそも製造指図書、作業手順書にしたがってノルフロキサシン原末を製造しているとは考えられない。
(二) 被告ワイ・アイ・シーの製造工場において、平成八年五月二一日から二八日にかけて原告立会のうえでされたノルフロキサシン原末製造の結果は、作業手順書(乙一一号証)あるいは製造指図書(乙一八号証)に従ってノルフロキサシン原末を製造することができないことを示している。
被告らは、立会製造時の製造方法は、基本的には作業手順書及び製造指図書と異ならないと主張するが、立会製造時の製造方法は作業手順書や製造指図書とは具体的操作が異なり、スケジュール的にも全く違ったものである。遠心濾過の所要時間、ベンゼン留去工程の所要時間の記載、ジクロロメタン、エタノール溶媒による溶解を確認した旨の記載、ノルフロキサシン原末の収量の記載等が、立会製造で行われたことが、第一回目の製造記録に相違する事実を示している。
4 被告ワイ・アイ・シーが、仮に改正法附則五条二項の要件を満たす準備行為をしていたとしても、改正法附則五条二項の実施権に基づく実施を開始するには、適正な実施料の支払い又は少なくとも提供を要する。
したがって、これを怠ってする実施は改正法附則五条二項に基づく通常実施権の適法な実施とは認められない。
第三 当裁判所の判断
一 改正法附則五条二項の趣旨
改正法附則五条二項、三項の規定は、改正法の公布当時、既存の特許権の存続期間が従来の規定に定めるところにより近い将来満了し、その発明の実施が自由になることを期待して発明の実施である事業の準備をしていた者が、改正法が施行されて当該特許権の存続期間が延長された結果、準備していた事業が中止を余儀なくされることにより準備行為が無駄となって不測の不利益が生じ得ることを配慮し、そのような者に準備していた発明及び事業の目的の範囲内で有償の通常実施権を与えることによって特許権の存続期間が延長される特許権者との利害の調整を図り、もって発明の実施である事業を準備していた者に生じ得る不測の不利益を救済するため設けられた規定である。
この規定は、世界貿易機関を設立するマラケシュ協定附属書一C知的所有権の貿易関連の側面に関する協定七〇条パラグラフ4の「保護の対象を含む特定の物に関する行為がこの協定に合致する加盟国の国内法令に基づき初めて侵害行為となる場合であって、当該行為が世界貿易機関協定を当該加盟国が受諾する日の前に開始されたとき又は当該行為について当該日の前に相当な投資が行われたときは、加盟国は、この協定を適用する日の後継続して行われる当該行為に関し権利者が利用し得る救済措置の制限を定めることができる。(以下略)」との規定を受けて、同協定三三条に適合するよう特許権の存続期間を出願日から二〇年と改正したことに伴う第三者の不利益を救済しようとするものである。したがって、改正法附則五条二項、三項により救済しようとした不測の不利益とは、従来の規定によってある特許権の存続期間が経過したならば、直ちに当該特許発明を実施しようと期待していたのに改正法の施行により延長された存続期間中は実施できず、実施によって得られたはずの利益を失ったというような、単に存続期間が延長された結果直接、当然に生じる不利益をいうものではなく、従来の規定によって存続期間が経過した後の当該特許発明の実施である事業の準備のために相当な投資行為をしていた者が、延長された存続期間中その事業を行えず、延長後の存続期間の経過まで、その投資の成果を回収することができないという不利益をいうものであり、右改正法附則五条二項にいう「その特許権に係る発明の実施である事業の準備」とは、その特許発明の実施である事業のために相当の投資をしてする準備行為と解するのが相当である。
なお、右準備行為は、専ら当該特許発明の実施である事業のためにのみするものであることを要するものではないが、準備行為が当該特許発明以外の事業のためのものである結果、改正法による存続期間の延長が投資の回収に及ぼす影響がさしたるものではないような場合は、当該特許発明の実施である事業の準備と解することはできない。
また、本来、他の事業の準備として行われた投資に乗じて、改正法附則五条二項の適用を受け、本件特許発明について通常実施権を取得するために、外形上、当該特許発明の実施である事業の準備のように装われたに過ぎないものは、当該特許発明の実施である事業の準備に当たらないことは当然である。
改正法附則五条二項の規定と先使用による通常実施権の成立要件を定める特許法七九条の規定とは文言上類似しているが、改正法附則五条二項の規定が特許発明の旧存続期間経過後の実施のための相当な投資の保護を目的とするのに対し、後者は、特許発明の出願前に、同一発明を独自に開発し、その実施のために客観的に認められる具体的行為をした者の保護を目的とするもので、制度の趣旨が異なるから、二つの規定を同様に解すべき理由はない。
二 被告ワイ・アイ・シーの準備行為について
1 被告ワイ・アイ・シーが、ノルフロキサシン原末製造のためにした準備行為として主張する行為の主たるものは、①平成六年一〇月から一二月にかけてした製造工場における設備増設工事、及びそのための請負業者との契約、打合せ、②平成六年五月一八日付けでした被告シオノケミカル、被告陽進堂、被告辰巳化学との原末供給契約の締結(乙三号証、乙三一号証、乙三三号証)、③右増設工事に伴い同年一一月一日付けで婦中町長宛にした危険物取扱所変更許可の申請(乙七の二)、④同年一二月七日付けで厚生大臣宛にした医薬品製造品目追加許可の申請(乙五号証)である。
以上の行為中、②の原末供給契約の締結、③の危険物取扱所変更許可の申請、及び④の医薬品製造品目許可の申請は、いずれもそれ自体としては相当の投資を要する準備とは認められない。これに対し、具体的な投資を伴ってしたと主張されている前記①の被告ワイ・アイ・シーの製造工場における増設工事についてみると、被告ワイ・アイ・シーは、立花耐酸機器に請負わせ(ダイヤモンドエンジニアリングが下請として施工)、平成六年一〇月二〇日ころから一二月にかけて、その製造工場において、一〇〇〇リットルのグラスライニング製の反応槽、冷却コンデンサー、真空ポンプ等の設置を主たる内容とする増設工事を行い、そのため合計三六〇五万円を支出した(乙四号証、乙七号証の一、二、乙八号証、乙九号証、乙一二号証、乙一三号証の一、二、乙一四号証の一ないし三及び弁論の全趣旨)(以下、以上の増設工事を「本件増設工事」、その結果増設された設備を「本件増設設備」という。)。被告ワイ・アイ・シーが、資本金一〇五〇万円、従業員が一二名の会社である(弁論の全趣旨)ことからすると、本件増設工事のためにした投資額三六〇五万円は、相当な投資であるというに十分である。
したがって、本件増設工事が真にノルフロキサシン原末製造のためにされた準備行為であると認められるならば、被告ワイ・アイ・シーは、本件特許発明の実施である事業について相当の投資を要する準備をしていたものとして、改正法附則五条二項の規定に基づき、本件特許発明についてその準備行為の目的の範囲内で通常実施権を有するものと認められることになる。
そこで本件増設工事がノルフロキサシン原末製造の目的でされたものであるかについてみると、前記④の平成六年一二月七日付けで厚生大臣宛に提出された製造品目追加許可申請書は、被告ワイ・アイ・シーがノルフロキサシン原末の製造を意図していたことを前提とするものであり、前記③の平成六年一一月一日付けで婦中町長宛に提出された危険物変更許可申請書の別紙(1)にはノルフロキサシンの製造を予定した記載がある。
これらの事実は、ノルフロキサシン原末製造のため本件増設工事をしたという被告ワイ・アイ・シーの主張にそうものということができる。
2 しかし、本件増設設備については、次のような事情がある。
(一) 本件増設設備は、薬品製造設備としては汎用性があるが、直接的には、被告ワイ・アイ・シーが、既存の工場設備でかねてから製造していたテプレノンを製造するためのものでもあったもので、平成六年一一月一日付で婦中町長宛に提出した危険物変更許可申請書の記載には、テプレノンの製造に関しては、添付の別紙(1)、(2)を含めて何ら不備はなく(乙七号証の一、二)、周到な準備の存在がうかがわれる。これに対し、ノルフロキサシンの製造のための設備の工事に関する危険物変更許可申請書として見ると、作業手順書を記載した別紙(2)に、ノルフロキサシンの記載がない(乙七号証の一、二)など、基本的な不備がある。
(二) 平成六年法律第一一六号による特許法の改正の基礎となった工業所有権審議会の答申には、特許権の存続期間を、出願から二〇年をもって終了するものに改めると共に世界貿易機関設立協定受諾の日前に存続期間が延長される特許発明の実施の準備をしていた者は通常実施権を有する旨の経過措置を設ける必要がある旨の記載があり、右のような答申の内容は、少なくとも答申の翌日である平成六年九月八日には被告ら製薬業者が入手可能であった。(前記第二の一4)
(三) ノルフロキサシン原末については、原告がノルフロキサシン製剤を国内で販売開始した頃から、遅くとも平成四年頃には、中国、インド、香港、韓国等の業者から安価に供給する旨の売り込みが原告にしばしばあり(甲一六号証)、同様の売り込みは、被告らを含む製薬業者に対しても行われているものと推認され、平成七年には少なくとも七トンのノルフロキサシン原末が輸入されている(甲一六号証)。
(四) 右(一)ないし(三)のような事情から考えると、被告ワイ・アイ・シーは、本件増設設備について、本来テプレノン製造を直接の目的とし、増設計画を練っていたが、法改正によって、ノルフロキサシンの特許権の存続期間が延長されるとともに、ノルフロキサシンの製造の実施の準備をしていた者には、延長された期間中法定通常実施権が生じるものとされることを知り、真にノルフロキサシンを製造するための準備ではなかったのにこれを装うため、あるいは更に通常実施権に基づいてノルフロキサシン原末を製造していることを装いつつ、安価な輸入ノルフロキサシン原末を何らかの方法で入手し、これを販売するために、かけ込みで、右増設工事をノルフロキサシン原末製造のための準備行為であるかのような外観を作ったものであるとの具体的な可能性は否定できない。
もとより、それらは可能性の程度に過ぎないけれども、根拠のない荒唐無稽のものといえない以上、本件増設設備が真にノルフロキサシン製造のための準備行為として行われたものかどうか、慎重に検討することが必要である。
3(一) 被告は、平成五年七月ころからノルフロキサシン原末の製造を行うか否かの検討を始め、後発医薬品メーカー数社と交渉したところ、多くのメーカーが被告ワイ・アイ・シーからノルフロキサシン原末の供給を受けることに前向きの姿勢を示したので、ノルフロキサシン原末の製造方法や製造設備等について検討を進め、本件特許明細書に開示された実施例6の方法によることを決定し、そのために工場設備を増設することが必要となり、増設工事について立花耐酸機器、ダイヤモンドエンジニアリングと、工事内容について打合せをし、見積書の提出も受け、他方、被告シオノケミカル、被告辰巳化学、被告陽進堂とノルフロキサシン原末の製造及び供給に関する契約を結ぶ等の経過を経て本件増設工事に至った旨主張している。
(二) 右主張にそう証拠としては、平成六年四月に被告ワイ・アイ・シーの設備増設について、立花耐酸機器からダイヤモンドエンジニアリングに依頼があり、被告ワイ・アイ・シーと打合せをし、同年五月に見積書を提出し、正式の発注を受けた旨の記載のあるダイヤモンドエンジニアリング社員が後日作成した報告書(乙一〇号証)、立花耐酸機器作成の平成六年五月一八日付け見積書(乙一二号証)、被告ワイ・アイ・シーと被告シオノケミカル間(乙三号証)、被告陽進堂間(乙三一号証)、被告辰巳化学間(乙三二号証)の各同年五月一八日付けノルフロキサシン原末供給契約書が存在する。
しかし、乙一〇号証、乙一二号証には、本件増設工事がノルフロキサシン原末製造設備に関するものであることを明示する記載はない。
また、乙三号証、乙三一号証、乙三二号証は、本件訴訟において利害の共通する被告相互間で作成されたものである上、乙三号証と乙三二号証は、マスクにより隠匿されている原末購入保証数量、二つの違約金額は不明であるが、その他は、当事者名以外全く同じワープロ文書であり、乙三一号証は、右二つとほどんど同文であるが一行の字数のみが異なるワープロ文書であること、三つの契約書が同一日付で作成されている等の特徴がある。
(三) 他方、右(二)に挙げた証拠の外には、本件増設工事前に被告ワイ・アイ・シーが、ノルフロキサシン原末の製造を計画していたことを具体的に示す証拠はない。
一般に特許明細書に実施例として開示されているのは室内実験レベルあるいは小規模生産レベルでの知見の要点であり、各種操作や精製法の細部が開示されていないので、そのまま工業的製造に用いることはできないことが多く、実施例に基づき製造工程を決定しようとする場合、様々な基礎実験を重ねて、開示されていない製造上の細部を探知し、設備面、安全面、採算面での検討を行いながらスケールアップして製造方法を確立していくことが必要となるはずである。そして、その業者にとって新規な医薬品の製造のために設置すべき製造設備は、右のような基礎実験を重ねてスケールアップするなかでその基本的概要が決定されていくものと考えられる(甲六号証、甲九号証)。
本件特許明細書に開示された実施例6の方法によることを決定するについても、少なくとも実験室規模の試験を行うなどして、開示されたとおりの方法で実施可能かどうか、収率はどうか、明示されていないノウハウ的な工程の有無、その解明、実施例6では使用されていない溶媒のベンゼン、エタノールを使用することの可否の検討、製造原価の試算等の技術的検討がされるのが通常であろう(なお、被告ワイ・アイ・シーが右のような特許明細書に開示された実施例を実施するための試験は違法であるとの見解に立って、試験を控えていたとしても、試験に代わる何らかの調査研究が行われるものと考えられる。)。更に、製造した原末の売上見込み、販売予定の価格の決定、ノルフロキサシンの売却予定先との交渉、その結果の契約価格の決定、本件増設工事の経費と本件増設設備から得られる収益についての試算等も、小さいとはいえ企業である以上、されているはずである。それなのに、技術的検討、経営的検討の記録、営業活動の記録が提出されていないのは何としても不自然である。
そのような検討、活動の証拠がないままでは、突然、シオノケミカル外二社とノルフロキサシン原末供給契約がされ、ノルフロキサシン原末製造のために本件増設工事が計画されたことになり、企業活動として、真にノルフロキサシン原末製造が準備されていたということは疑わしいといわざるを得ない。
4 次に、本件増設設備の内容、製造品目追加許可申請書、危険物変更許可申請書自体について、ノルフロキサシン原末の製造のためのものとみて合理性があるか否か順次検討する。
(一) 本件増設設備の内容
(1) 本件増設設備がテプレノンの製造設備としても使用される予定であることは当事者間に争いがないところ、本件増設工事によって新設された一〇〇〇リットルの反応槽RE―05は、グラスライニングされた反応槽であり、また洗浄剤仕込ポンプであるPU―23から当該反応槽の経路はグラスライニングされている(甲六号証、乙七号証の二)。
グラスライニングされた反応槽は、その性質上、衝撃に弱く、結晶が析出した場合の処理が困難であり、基本的には液体状の物質の製造にむいているところ、ノルフロキサシンは製造工程において結晶が析出しあるいは懸濁状となり、配管に詰まったり、洗浄が困難となるのに対し、テプレノンは製造工程において基本的に液体状の反応で進行するものであるから、本件増設設備は基本的にはノルフロキサシン原末製造にはふさわしくなく、むしろテプレノンの製造にふさわしい設備であるということができる(甲六号証)。
被告らが主張するように、汎用の設備とするため高価な設備を用いてあらゆる場面に対応するよう設計することも考えられないではないが、当該グラスライニング製の反応槽が本件増設工事において購入された機器のうち単体で最も高価な機器(六七八万円(値引き前))であり、現に被告ワイ・アイ・シーの製造工場において一部破損を理由にグラスライニング製の反応槽が更新されたことがある(乙六六号証)ことからすると、後記検討する立会製造時の四日目に見られるようなグラスライニングされた反応槽の底部に固化した結晶を木製オールでつついて掘削、粉砕するような作業を予想して、わざわざ高価な反応槽を購入するとは考えにくく、汎用設備とはいえても、ノルフロキサシン原末の製造を確固とした目的として予定していたとみるのは不自然である。
また被告らは、ステンレス製の反応槽には重金属の混入の可能性があり一般的に使用されない旨主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はなく、甲六号証によれば、テプレノンの製造工程では強酸を使うため当該部位をグラスライニング製のものにする必要があることが認められるが、ノルフロキサシン原末製造のために特にそのような観点からグラスライニング製のものを使用する必要性は認められない。
(2) なお本件増設設備中には、テプレノン製造には必要がないが、ベンゼンの共沸脱水工程で用いられノルフロキサシン原末製造に必要である水分離設備が設けられているが、右設備の存在は必ずしも本件増設設備がノルフロキサシン原末製造を意図してされたものであることを示すものとはいえない。
すなわち、水分離設備の内容は、それ自体単体で見積書に記載されない程度のものであるとともに、被告ワイ・アイ・シーの工場における水定量缶は、既設品を転用したものである。
また、平成六年一〇月二〇日付工事工程表(乙四号証)添付のフローシート、危険物変更許可申請書添付のフローシートでは、水分離設備の水分離管の上列の配管(還流ライン)の下側の配管との接続位置が誤って表示されている(乙六九号証)が、本件増設工事が真にノルフロキサシン原末製造を目的の一つとしていたならば、そのために必要な設備の配管の作図の誤りは、慎重な再三の検討の中で発見されて当然であり、むしろそのような目的がなく、汎用設備として水分離設備が設けられたために特に注目されることなく誤りが見過ごされたのではないかとの疑いが残る。
これらの事情を考慮すると、水定量缶を含む水分離設備は、確かにノルフロキサシン原末の製造には必要である一方、その他何の製造に必要であるかは明らかでないが、それ自体安価な設備であり、汎用設備の一部として設置されたもので、ノルフロキサシン原末製造という確固とした目的のために設けるものとは明確に認識されていなかったのではないかとの疑いが残る。
(二) 製造品目追加許可申請書(乙五号証)について
製造品目追加許可申請書には、「新たに製造する品目」欄に「局外規ノルフロキサシン(製造用)」の記載があるものの、「製造設備の概要」欄は「変更なし」の記載があるにとどまる。被告ワイ・アイ・シーがその当時主観的にはノルフロキサシン原末の製造の意思を有していたことを推認させるが、それ以上に本件増設設備がその製造工程に使用するために増設された事実を推認させるものとはいえない。
なお厚生省薬務局審査課監修にかかる医薬品製造指針一九九四年版(薬業時報社刊)(乙一七号証、乙三四号証の各一ないし三)によれば、該欄の記載は、構造設備の変更届けを要すると同程度の変更を記載すべきであるが「製造機械2台のところへ1台増したという程度」は構造設備の変更届けを要する場合に含めないとされており、後記するとおり、本件増設工事は被告ワイ・アイ・シーが既設の製造設備で製造していたテプレノン製造設備の追加にすぎないといえる側面もあるから、本件増設工事をもって「製造設備の概要」欄において変更した旨を記載すべき内容であったとは必ずしもいえない。
したがって、該欄に「変更なし」の記載があることをもって被告ワイ・アイ・シーが本件増設工事をノルフロキサシンに使用する意思を有していなかったとする原告の主張は失当であるが、だからといって、「変更なし」との記載から、被告ワイ・アイ・シーが、その製造工程に使用するため本件増設工事をしたとの事実が推認されるわけではない。
(三) 危険物変更許可申請書(乙七号証の二)について
(1) 被告ワイ・アイ・シーが、本件増設工事に際し、平成六年一一月一日付けで婦中町長宛に提出した危険物変更許可申請書には、「危険物の類、品名(指定数量)、最大数量」欄に「別紙(1)のとおり」と記載があり、別紙(1)中には、今回申請分としてノルフロキサシンに関する工程日別の危険物の取扱数量及び指定数量の倍数が示されている。別紙(1)記載のノルフロキサシンに関する記載中、ベンゼンの欄が赤鉛筆で斜線が書き込まれているが、別紙(1)の欄外に「◎ 最大数量指定数量は、平成四年一月七日の変更許可時の倍数3.8倍+平成6年11月1日申請分(新規設備で使用する指定数量の最大日)2.0倍=5.8倍」と記載があることからすると、右赤斜線は、単に右欄外の記載内容を分かりやすく指示したものにすぎないと認められる。
したがって、この記載から、被告ワイ・アイ・シーがノルフロキサシン原末製造を今回の変更許可申請の申請理由の一つとして挙げていたことは認めることができる。
しかしながら、危険物変更許可申請書の「変更の内容」欄には「別紙フローシート」のとおりとの記載、「変更の理由」欄には「新製品[別紙(2)]の生産によるプロセスの増設に伴う変更」との記載があり、これらの記載に本件増設工事によって危険物変更許可申請を必要とした直接の理由が示されるはずであるのに、ロキソプロフェンとテプレノンに関する別紙(2)及びフローシートの添付はあるものの、ノルフロキサシンに関する書類は一切添付されていない。
右のロキソプロフェンに関する申請は、以前に無届けでされた増設工事を今回の申請の際に追完して申請したものであり、本件増設工事によって実際に増設された設備にロキソプロフェン製造に用いる反応槽類は含まれないと認められる(乙一〇号証)から、危険物変更許可申請書の「変更の内容」及び「変更の理由」欄を見る限り、本件増設工事は、テプレノン製造のための設備を設置したものとしか認めることができない。
その意味で本件危険物変更許可申請書はノルフロキサシン原末の製造過程における危険物の使用についてのものとしては、ノルフロキサシンに関する別紙(2)を欠く不備なものといわざるを得ない。
(2) 被告ワイ・アイ・シーは、危険物変更許可申請書にノルフロキサシンに関する作業手順書等が別紙(2)として添付されていないことについて、その当時、本件特許明細書の実施例6の製造方法を用いることとしてノルフロキサシンの基本的な製造方法は決まっており、使用する溶媒も特定していたが、ノルフロキサシン原末の生産自体は本件特許権の存続期間満了後に行う予定であったため、製造のための詳細な条件等、最終的な製造作業手順は確定に至っておらず、婦中町消防署の担当者の指導によりノルフロキサシンについては最終的な作業手順が確定した後に追加提出することとして、危険物変更許可申請書にはノルフロキサシンの作業手順に関する書類を添付しなかった旨主張する。
しかし、本件特許明細書に記載された実施例6の製造方法によることとしてノルフロキサシンの基本的な製造方法及び使用溶媒も特定していたというけれども、決定されていたという基本的な製造方法は溶媒が異なるにもかかわらず実施例6の方法という以上に具体的な方法は明らかにされておらず、右のような決定に至るまでにどのような技術的、経営的な検討が行われたかを示す証拠もない。危険物変更許可申請書の別紙(1)にノルフロキサシン原末製造に使用する溶媒の数量と使用日の記載があるが、それらの溶媒の種類と数量、製造工程の何日目に使用するかを決定したのか合理的な説明はされていないし、実施例6で使用されるトルエンにかわってベンゼン、エタノールを用いることとしたことについて被告ワイ・アイ・シーがどのような検討をしたかを認めるに足りる証拠もない。
また、別紙(1)に記載されたノルフロキサシンの全工程日数、危険物とされる溶媒の使用量、使用日数自体が、実際の製造に使用されるとして開示された作業手順書(乙一一号証)あるいは後に危険物変更許可申請書の追完として提出された別紙(1)(乙六六号証)の記載とで、全工程が八日から五日に短縮され(後に追完された別紙(1)では六日間である。)、メトキシーブタノール、ベンゼン、エタノールの使用日数、使用量といずれも半分程度になっているなどかなり異なっている。
被告らは、別紙(1)と作業手順書の溶媒の使用日数、使用量の相違は、実際の製造工程での必要に応じて変更したものである旨主張するが、どのように検討をした結果当初の計算がどのように違ってきたために変更されるに至ったか認めるに足りる証拠は一切ない。もとより、製造工程についての当初の計画が種々の検討を経て変更されることはあり得ることであるが、従前製造したことのないノルフロキサシン原末を製造する目的で、工場内の設備を多額の投資をして増設するために当初計画された製造工程であれば、それなりの確固とした裏付けがあるはずであり、これを変更するについても具体的な裏付けに基づく検討が行われているはずであるが、そのことを示す具体的根拠はない。また、別紙(1)に示された溶媒の使用量等の予定から、被告ワイ・アイ・シーが実施例6に基づいて基本的な製造方法を決定していたと推認することはできない。
消防署の指導により別紙(2)を追完する予定であったとの点については、本件増設工事を請け負ったダイヤモンドエンジニアリングの社員作成の報告書(乙一〇号証)及び被告ワイ・アイ・シー工場長の大川周二作成の報告書(乙一一号証)には婦中消防署の担当者に事情を説明して危険物変更許可申請書に添付するノルフロキサシンに関する作業手順書等は追完でよいとの指導があった旨の記載がある。
仮にそのような指導があったとしても、既に確定している作業手順等を記載しなくて良いと指導されたわけではないことは、右各証拠から明らかであり、結局、危険物取扱所変更許可申請時に、本来必要とされる別紙(2)の添付がなかったのは、当時別紙(2)として必要な最低限の内容の作業手順書及びフローシート等を記載する程に技術的検討がされていなかったためとみるのが相当である。
(四) 以上検討したところによれば、本件増設設備の内容は本件増設工事がノルフロキサシン原末製造を確固たる目的の一つとするものとみるには不自然であるし、製造品目追加許可申請書は必ずしも本件増設設備がノルフロキサシン原末製造を目的とするものであることを証明するものではなく、危険物変更許可申請書の別紙(1)の記載から、被告ワイ・アイ・シーがノルフロキサシン原末の基本的な製造方法を決定していたものとみることもできないし、別紙(2)が添付がされていない点は、本件増設工事が真に当初からノルフロキサシン原末製造を目的の一つとして設計され準備されていたものとみることができる程度に技術的な検討がされていなかったことを示しているといわなければならない。
5 右2、3(三)、4に認定判断したことを念頭に置いて前記乙三号証、乙三一号証、乙三二号証の各契約書を検討するに、それらの契約書の作成日付である平成六年五月一八日はもとより、同年一一月に至ってもノルフロキサシンの製造方法が決定していなかったのに、右のような契約が結ばれた理由やそれまでの交渉経過を認定するに足りる証拠がないこと、被告シオノケミカル、被告陽進堂、被告辰巳化学の三社との契約がなぜ同一日付となっているのか、なぜ同一条文であるのか、ほぼ同一条文であるのになぜ一行の字数の異なる契約書があるのかを認めるに足りる証拠もないこと、被告ワイ・アイ・シーが法定の通常実施権を有していると判断されるか否かは、右の被告三社にとっても大きな利害関係があること等を考慮すれば、右三通の契約書に真実その記載の日に作成されたものかどうか疑いが残り、これらの契約書があるからといって、その日付の当時から、被告ワイ・アイ・シーがノルフロキサシン原末の製造を予定し、そのために増設工事を計画していたと認めることはできない。
6 右2ないし5に認定したとおりであるから、被告ワイ・アイ・シーが改正法公布直前に行った本件増設工事は、真にノルフロキサシン原末の製造の準備として行われたものではなく、むしろテプレノン製造設備及び汎用目的の増設工事計画を、急遽、ノルフロキサシン原末の製造も確定的な目的とするものであるかのように装うためにされたものではないかとの疑いを否定できず、本件増設工事をもって、ノルフロキサシン原末製造のためにした準備行為と認めることはできない。他に、ノルフロキサシン原末製造の事業のために相当な投資をもってする準備行為がされたことを認めるに足りる証拠はない。
なお、以上のように判断することは、改正法附則五条二項所定の発明の実施である事業の準備をしていたか否かの判断の基準時を、改正法の基礎となった工業所有権審議会の答申が公表された時点とするものでも、右答申から改正法附則五条二項のような規定が設けられることを察して後に、右の規定の適用を受ける目的で特許発明の実施である事業の準備となる行為をした者に改正法附則五条二項所定の通常実施権の発生を否定する趣旨でもない。
三 まとめ
1 被告ワイ・アイ・シーが改正法公布前に本件増設工事という相当な投資行為をしたことは認められるが、それが真にノルフロキサシン原末製造のためにされたものと認められないから、被告ワイ・アイ・シーについて改正法附則五条二項の規定に基づく本件特許権の通常実施権の成立は認められない。
同社がノルフロキサシン原末を製造、販売する行為は本件特許権を侵害する行為であって違法である。
したがって、その余の点を判断するまでもなく、その余の被告らがノルフロキサシンを含有する製剤を製造し、販売する行為も本件特許権を侵害する行為であって違法となる。
2 被告辰巳化学、被告陽進堂、被告大洋薬品工業及び被告共和薬品工業が、それぞれに対する請求の趣旨に記載された各別紙記載のノルフロキサシンを含有する製剤を製造し、販売していることが認められる(乙五七号証、弁論の全趣旨)。被告シオノケミカル及び被告東洋ファルマーがそれぞれに対する請求の趣旨に記載された各別紙記載のノルフロキサシン製剤を販売していることは認められる(乙五七号証)が、それぞれが同製剤を製造していることを認めるに足りる証拠はない。
しかし、被告シオノケミカルは当初ノルフロキサシン製剤を販売せずその原末の卸売りに関与すると主張していただけである(答弁書、請求の原因に対する答弁五項)のに、現在、ノルフロキサシン製剤の販売をしていること(乙五七号証)、被告東洋ファルマーは、当初ノルフロキサシン製剤の製造、販売をする計画を認めていた(答弁書、請求の原因に対する答弁五項)ことのほか、これらの者が製剤を製造する能力を有していることは明らかであるから、右両被告についてもノルフロキサシン製剤を製造するおそれがあるものと認められる。
四 以上によれば、原告の本訴請求は、いずれも理由がある。
(裁判長裁判官西田美昭 裁判官髙部眞規子 裁判官森崎英二は転補につき署名捺印することができない。裁判長裁判官西田美昭)
別紙特許公報<省略>
別紙目録1〜7<省略>